樋上眞生 ものがたり 第二話

みのおてならいサロンコンサート「Replay 右手のピアニスト 樋上眞生」の開催にあたり、樋上眞生さんの隠れた魅力をより身近に感じていただけますよう「樋上眞生 ものがたり」を綴ってまいります。第一話に続き、第二話をお読みください。


 ●魂のラーゲリ

聖なるマリア 神の母

私たち罪びとのために祈ってください

今も 私たちの死のときにも

 

樋上は、カッチーニの『アヴェマリア』が好きだ。関西オペラ界の重鎮として知られる 森池日佐子(もりいけ ひさこ)先生のメッゾの深い響きに伴奏しながら、まぶたを閉じた。

 

「いい曲だなぁ」。

 

左手の指が思うように動かなくなって半年。原因も病名もわからないまま不安にかられて過ごしてきた。局所性ジストニアと判ったことで、むしろスッキリしたものの、人差し指は依然として動かない。いったいこれからもピアニストとして生きていけるのか。両手の記憶にさいなまれ緊(きつ)く縛られて、出口の見えない煩悶の日々が続いていた。

 

「不自由な左手を使って両手で弾くよりも、右手だけでも自由に演奏したい」。

 

樋上は、片手の作品の王道とも言える、スクリャービンの『左手のための2つの小品(プレリュード・ノクターン)』を初めて右手だけで弾いてみた。

 

「いける!」

 

樋上はそう確信した。2015年12月、31歳の誕生月に演奏家としての再起をかけて「右手のピアニスト」として生きる決意を固めたという。

 

●片腕のピアニスト

「左手のピアニスト」と聞くと、フィンランドと日本を拠点に活躍する舘野泉(たての いずみ)氏や、箕面特命大使の智内威雄(ちない たけお)氏といった名のある音楽家が思い浮かぶ。

 

音楽史に記された第一次世界大戦で右腕を失ったピアニスト パウル・ヴィトゲンシュタイン(1887〜1961)がラヴェルに作曲を依頼した「左手のためのピアノ協奏曲」をはじめ、病気や事故で右手の自由を失った左手用のピアノ曲は、現在1000曲以上あると言われている。

 

では、右手用の曲はどうだろう。

 

なぜそうなのかはわからないが皆無といっていい。樋上は、言わば荒野をさすらう一匹狼。右手のピアニストの決意を固めるも、演奏曲を1曲ずつ自力で増やしていかなければならない。

 

また従来通りの演奏ではとうてい弾けない。右手を使って低音部を弾きやすくするために椅子を左に寄せ、左の中指、人差し指、親指3本の代わりに、右手の中指、薬指、小指を使う。音数が少ない分、倍音を効かせるレガートペダルを右足で踏み込む。右側に異常に偏(かたよ)った力がかかり激しく体力を消耗するため、これまで以上に体幹を鍛え、肉体改造も必要になる。

 

「やるしかない」。そう腹を括るしかない。癒すことのできない喪失感を癒せるものは、ほかでもないピアノでしかないのだから。

 

●編曲、そして選曲

 樋上が、右手のピアニストとして再起することを決め、鍵盤に向かったときに初めに降りてきた曲、それがカッチーニの『アヴェマリア』だった。

 

樋上は、カッチーニの『アヴェマリア』が好きだ。ことばの奥に一曲の重みを改めて知らされる。カッチーニのアヴェマリアは、『右手のためのアヴェマリア』として、再起後の初アルバムに収録されている。右手用に編曲した第一作目の作品である。

 

その後も“ロシアもの弾き”を自認する樋上は、ラフマニノフの編曲にも取り組み、『右手のためのエレジー』と『右手のためのプレリュード』を立て続けに完成させた。

 

樋上は、既存のピアノ曲を右手用に編曲する。加えて左手のための演奏曲からも選曲するが、左手のための曲を右手用に編曲することはしない。それはこの道を苦心して拓いた先人へのリスペクトをこめた禁忌に思う。

 

また一方で左手の曲をそのまま右手で演奏することで、右手でも左手の曲に挑戦ができるという可能性を後進に伝えるためでもある。

 

2017年2月、フランスでの「森池日佐子・樋上眞生ジョイントコンサート」が決まり、その目前に、作曲家尾上和彦氏から託されたオペラ『月の影~源氏物語』の楽曲から3つのアリアの編曲を完成させて、「右手のピアニスト」としてパリの舞台で喝采をあびた。

 

2018年10月についに日の目を見る右手のピアニストデビューCD『源氏幻想』には、この間、樋上が編み、左手の曲に果敢に挑戦した10曲が収録されている。世界で唯一無二、右手のための10曲のレパートリーだ。

 

●舘野氏との出会い

そして、共演

 荒野をさすらう樋上にとって、舘野泉氏との出会いは渇いた大地を潤す慈雨、そして、一筋の光であった。

 

左手のピアニストとして、人間味に溢れ、叙情をたたえる演奏は聴くものの魂をゆさぶり、ピュアで透明な旋律を紡ぎだす孤高の鍵盤詩人 舘野氏に捧げられた作品は、世界10カ国の作曲家により100曲以上にも及んでいる。すでに不動の地位にありながら、領域や分野にこだわらず演奏芸術の可能性を拓き続け、クラシック界のレジェンドと謳われている。

 

2019年11月、いしかわ・金沢 風と緑の楽都音楽祭実行委員会主催「左手のピアニストの為の公開オーディション」が行われた。このオーディションは、2018年にはじまった金沢発の画期的な取り組みである。右手の病気や障がいなどで両手での演奏が困難になったピアニストを対象に、世界に呼びかけ開かれた未来を創ることを目指し、舘野氏が審査委員長をつとめている。

 

樋上は、左手の舞台に、ひとり「右手」で出演する。順位を競うのではなく、音楽祭への出演者が決まるオーディションの舞台裏、和気藹々と話しをはずませ出番を待つ出演者に交じりながら、樋上は心細く居た。

 

審査委員長の舘野氏は樋上の演奏を聞き、少年のように瞳を輝かせその驚きをこう呟いている。

 

「右手の演奏をはじめて見た」。

 

その声は温かく、まなざしは慈愛に満ちていた。樋上は、舘野氏のひと言が心底うれしかった。優秀賞を授けられた樋上は、2020年5月3日に開催される いしかわ・金沢 風と緑の楽都音楽祭 2020の「左手のための音楽会」で、舘野氏との共演のチャンスを得た。

 

この日のSNSには、舘野氏と左手のピアニストの為のオーディションに参加を認めてくれた方々への心からの感謝とともに、受賞、そして来たる共演の喜びをしたため、再び決意を綴っている。

 

「まだ、頑張ろう」と。

 

 

お知らせ:

残念ながら、新型ウイルス感染症拡大防止のために今年の「いしかわ・金沢 風と緑の楽都音楽祭 2020」は中止となりましたが、樋上眞生さんの物語は今後も続きます。私たちを惹きつけてやまない演奏とともに樋上さんのこれからを折に触れてお伝えしてまいりたいと思います。