樋上眞生 ものがたり 第一話

みのおてならいサロンコンサート「Replay 右手のピアニスト 樋上眞生」の開催にあたり、樋上眞生さんの隠れた魅力をより身近に感じていただけますよう「樋上眞生 ものがたり」を綴ってまいります。


 ●ただ憧れを知るもののみが

令和元年も終わろうとしている2019年12月5日大阪いずみホール。鳴りやまない拍手とアンコールに応えて、チャイコフスキー『ドン・ファンのセレナーデ』、シューマンの『献呈』を捧げた若手バリトンの騎手 高橋純氏と伴奏者 樋上眞生共演のステージ。

 

「やっぱり両手っていいな。歌の伴奏っていいな。また自由に弾きたいな.....」。樋上は公演後のSNSでそうつぶやいている。

 

京都市立芸術大学同窓生、ひとつ年下の高橋との初共演は今から10年前に遡る。以来、毎年、年に数回伴奏をつとめてきた。高橋は大学院卒業を迎え、その集大成となるリサイタルにも変わらず樋上と共に立った。

 

長く互いを知るもの同士。ただこの瞬間を分かち合う、歌い手と伴奏者、ふたりの今、そのありのままを多くの観客が胸に刻んだ。

 

●生い立ち

樋上は1983年12月、大阪府寝屋川市でサラリーマンの家庭に生まれた。その冬は五九豪雪(ごうきゅうごうせつ)といわれる記録的な寒気が日本列島を覆い、西日本も大雪に見舞われている。

 

内気で引っ込み思案だった樋上の「人見知りを克服させて、度胸をつけさせたい」と近くの音楽教室に連れていかれたのが3歳。泣いてむずかる樋上を母がなだめ、父が諭して付き添った。

 

音楽で遊びながら、やがてピアノを演奏するようになり、児童コンクールで賞をもらえるようになった。みんなが誉めてくれるのが嬉しくて練習に打ち込んだ。近所の子どもたちが遊びに興じる声を聞きながら、ひとり鍵盤に向かう。中学生の頃までは、心のどこかで“やらされている”と感じていた。

 

そんなピアノに真剣に向き合うようになったのは高校生の頃。クラスの仲間の間で自然に進学の話が話題に上るようになり、初めてこれからの人生について考えた。

 

レベルを上げるために小学校から指導を受けていた先生との契約を解消。京都市立芸術大学の講師に個人レッスンを受け、同大学に現役合格。順風満帆の学生生活を送った。

 

●ロシアもの弾き

クラシックの鍵盤音楽は、“ドイツもの”“フランスもの”など、感覚の領域で心にしっくりとくるものを呼ぶ場合がある。たとえばドイツものは生真面目で構築的であったり、フランスものは、どこかおしゃれで、印象派の絵のような色彩を感じられたり。弾き手、聴き手双方にこうした好みが次に向かう道しるべにもなる。

 

凍てつく広大な大地に、深く垂れこめる空。ロシア民謡に聴くフォークロア。あらゆる時代と民族を内包しつつ、ヨーロッパに後発するも偉大な音楽家を輩出したロシア。チャイコフスキーの美しい旋律や叙情性、ラフマニノフの甘美な響き……。

 

もともとロシアの曲が好きだったものの、それが自分に合っていると気づいたのは大学卒業後だった。2006年、ロシアで開催された「日本の心」フェスティバルへの出演経験もある樋上は、自身を“ロシアもの弾き”と言う。

 

●音楽のメッカ、世界舞台へ

2007年音楽の都オーストリアはウィーンに23歳で留学、2008年には、ウィーン国立音楽大学教授、ベテランの指導者として知られるシュテファン・メラー氏のクラスを受講し、優秀者に贈られるロザリオ・マルチアーノ賞を受賞。氏の推薦を受けて2009年現地で自身初のソロリサイタルを開催し好評を博した。

 

帰国後もコンクールへの出演と受賞を重ね、2013年度の日本芸術センター年間最優秀ピアニストにも選出される。こうして着実にソリストとしての歩みを進め、2014年には所属する及川音楽事務所から、デビューCDをリリースすることになる。

 

樋上は「ロシアの曲は泥くささがその魅力」と言う。デビューCD用の楽曲を選曲中、これまで一度も弾いたことのなかったリャプノフを聴いた。リャプノフは、超絶技巧などのテクニックを編み、重厚で密度の高い音色を強靭な手で奏でたリストの流れをくむ、ロシアの作曲家にしてピアニスト。

 

「全体的に壮大で、叙情的なところが多々見られ、自分の感性にピッタリ合ったため、弾こうと思いました。日本でも人気のラフマニノフのソナタ二番と同じくらいロマンチックで、男の本質が見える作品です」。

 

●人と同じことをやりたくなかった

〈火上魔王〉の異名を持つ、飛ぶ鳥を落とす勢いの若きピアニスト。当時の樋上を知らないまでも、その熱さや向こう見ずさを推して知る挑戦。未だ手つかずの曲。そんな思いが日本人初のピアノソナタを収録したCDを誕生させる。

 

だが、この選曲が人生を大きく左右することになった。

 

初めてのリャプノフ。ハードな練習が何カ月も続いた。苦しいとは思わなかったが、やはりどこかで心身ともに負担が大きかったのか。左手の人差し指に違和感を覚えながらも、2日間のCD収録を乗りきった。

 

収録を終えて、1週間はピアノには触れず休養したが、左手は思うように動かないまま。

あちこちの病院をたずねると、その先々で違う病名を言われ、焦りと不安で押しつぶされそうだった。発症から半年が経った頃、ようやく病名がわかった。局所性ジストニアだった。

 

(第二話に続く)