みのおてならい音楽の森ツアーガイド☆鑑賞ノート1

「アンドレス・セゴビアに捧ぐ クラシックギター 〜そらのあなたを聴くしらべ」

演奏会の後の軽いお食事会の席で、島崎陶人先生は ご自身がアンドレス・セゴビア師父の演奏を体験した時の印象をたった一音弾いただけで 頭の上をジェット機が飛んで行ったかのように感じるほど 衝撃的な音だった と話された。

 

それは単に音が大きいだけでなく 音が広がるスピード 音の深み あるいは音色の的確さ 等々 様々な要素が複合的に作用しあった結果だと思われるが それを称して セゴビア奏法というのである。

 

陶人先生は 50年の試行錯誤の結果として セゴビアの域に達することは不可能である との結論に達した。もはやこれからは 不遜ではあるが セゴビアが目指したと同じ境地 を見ながら修行していくしかない と仰る。

 

演奏そのものの技術的な高さよりも前に 音 このたった一音の持つ豊饒な響きにこそ セゴビア奏法の ひいては陶人奏法の秘密があるのではないか と思わざるを得ない。

感覚的に それを表するなら 音はいわば空気の粒子の振動であり 波動であり 我々を取り囲む環境である。心地よい振動を持った良い音は 空気の粒子の乱れ( ノイズ )を取り除き 粒子の並びを一定の方向にそろえる。浄化する。まるで 天上に鳴り響く至福の音のように。正に 天に召されたセゴビア師父 そらのあなたを聴くしらべ なのだ。だから 実のところ とても眠たくなってくる( 苦笑 )

水に落ちた小石の波紋が 水面全体にゆったりと広がっていくように たった一つの音が その周りの空気に良い振動を与え 聴衆を取り囲みながら さらには 聴衆の中に入り込み この場所に来るまでにあった 様々な葛藤や感情のもつれ 不快感を取り除き 不具合を正しい方向へと導く。

美輪明宏師父が ご自分のリサイタルで 昨今の音楽はノイジーで 耳からうんこを食べているようなものだ と MC されていたけれども これは正にその対極にある音楽だ。これは ギター演奏会といった類のレベルのものではなく もはや デトックスであり 音楽療法である。優れた音楽の治療的効能は 歴史的にも自明であり あるいはまた 神前に供物の一つとして捧げられて来た。2019 年 6 月 29日の午後 箕面メイプルホールに ギターの音による桃源郷の風景が現出したのだ。

 

しかし はなはだ逆説的にはなるけれども その音を生み出すのもまた 圧倒的な演奏技術の高さ なのである。先の軽いお食事会の席で 陶人先生は 素晴らしいオペラ歌手の歌声を聴いて大変感動した というお話をされていて この歌手の声は倍音になっているのだろう と思いながら 筆者は聞いていたのだが 実は陶人奏法の重要なポイントはこの 倍音( ハーモニクス )を自由自在に駆使することではないのか との仮説に思い至った。ただ これはあくまでも仮説であり 陶人先生ご本人に確認すれば 全然 違うね~ と一蹴されてしまうのが オチなのだが( 苦笑 ) 音楽を聴いて 触発され あ~でもない こ~でもないと 想像を巡らせるのも また一つの音楽の楽しみ方 としてお許しいただきたい。

倍音の声を持つ最強の歌手は かの美空ひばりであるが 他にも 黒柳徹子 森進一 桑田佳祐 浜崎あゆみ 桜井和寿( ミスター チルドレン ) 吉田美和( ドリームズ カム トゥルー ) 坂井泉水( ZARD )等がいて 確かに印象的で 一度 聴けば忘れられない魅力的な声の持ち主ばかりである。

 

倍音は 複数の音域が一つの音の中で共存しているため 一度の発声で複数の声色を聴衆に意識させたり 一音でいくつもの感情を伝えることが可能となり それが時にはその歌手自身にカリズマ性を獲得させたりもする。

例えば 話術の巧拙が圧倒的な支持の差を生む政治家や芸人にも この倍音の持ち主は多い。アドルフ・ヒットラーや石原慎太郎 ビッグスリーと言われたタモリ ビートたけし 明石家さんま はモチロン 歴史的なプレゼンを連発したスティーブ・ジョブズもそうである。

 

このコンサートの数日前に " 新しい奏法 " を発見したため 奏法全体を抜本的に見直す必要が生じた と陶人先生は仰る。それは お食事会の席での 筆者の感想に対するお答えの中で披歴されたのだが 陶人先生のお話を要約するとそれは ギター演奏の基本的なポジションをとった際 多くのギタリスト達とは逆の( つまり かなり不自然な )方向に手首を曲げる というもの( 陶人先生曰く " 手にアゴを乗せた状態で 弦の上に手をもっていく " )で 結果 手首の可動域がおそろしく制限されるのである。これはいわば改悪と言っていい変更なのだが 陶人先生は こうすると 小手先の演奏が出来ず 身体全体で体幹を使って演奏する必要に迫られる と ご説明された。この辺りは古武術を主とした身体技法の研究家 甲野善紀師範と知己を得ていることが大きいのだろう と思われる。

もう一つは 手のひら全体でコードを押さえ 滑らせるように移動するのではなく 指の一本一本で 弾く度 愚直なまでに一音一音 丁寧に押さえていく というものである。このお話を聞いて それは沖縄民謡の中心的な楽器 三線と同じ技法だな と思った。三線は文字通り弦が三本しかないので コードという概念がなく その奏法は 一音一音 丁寧に弦を押さえていくしかない。これに謡いが伴うので 沖縄出身の父親を持ち 高校時代 ギターの名手であった友人がいるのだが その彼でさえ 入門当初は相当 苦労した と聞いた。

例えば タルレガの「 アルハンブラの思い出 」は セゴビア師父はモチロン 陶人先生にとっても最重要のレパートリーで これまでも数えきれない程 演奏してきたために 楽譜を見なくても 勝手に身体が反応して スラスラと演奏できる。しかし そのレベルに達してしまうと 演奏に対する緊張感からは解放されてしまうため それではダメだと陶人先生は仰るのだ。

そしてこれは 結果的に タッピングハーモニクスと呼ばれる奏法になっているのではないか? つまり 従来的な奏法の順序では 弦を押さえてから ピッキングするが それとは逆に 開放弦をピッキングしたあとに コードを押さえる という手順をとっている と考えられる。いずれの方法でも 弦を押さえる行為とピッキングとは ほぼ同時に行われるのだが 陶人先生が発見された新しい奏法の方が 音に倍音を加える効果が得られる。

 

いずれにせよこれは いったん身に着けた技術を捨てるということであり 陶人先生のような達人が さらなるレベルを目指すために そうした決意をされるのは 驚きでしかない。これこそ " セゴビアが目指したと同じ境地を見ながら修行していく " ということなのだろう。

先ごろ他界した 日本の劇画原作の第一人者 小池一夫氏のゴルフ漫画で 全米ツアーでも活躍できるほどのスキルを体得した主人公が さらに上のレベルを目指すため 右利きで身に着けたスキルを全て放棄し 左利きに転向する という件りがあった。右利きの自分の弱点を克服するために取得したスキルが 左利きに転向することで 結果として一切不要になり よりナチュラルで 無理や無駄を排除したスイングを実現させるのである。

あるいは 演劇では 一つの舞台が完成すると その舞台に別のベクトルを与えて 例えば 悲劇だったものを喜劇として再演する といった手法があると聞く。

映画スターの印象が強いブルース・リーは 実は当時 全米でもトップクラスの格闘技インストラクターであり 映画に出演することは 彼の創造した武術 " ジークンドー " を普及するための一つの手段と考えていたところがある。彼が武術の本質を語った言葉に以下のようなものがある。" 私が格闘技を学ぶ前 私にとってパンチは単なるパンチであり キックは単なるキックだった。けれど 格闘技を学んだ後には パンチはもはやパンチではなく キックはもはやキックではなくなっていた。そして 格闘技とは何かを理解したとき パンチは単なるパンチとなり キックは単なるキックとなった "

 

" 新しい奏法を発見 " との陶人先生からの電子メールには " 感情が入れられない " という文言もあり 当初 筆者は自動演奏を想起したのだった。ウィキペディアの文言によると "  あたかも 何か別の存在に憑依されて肉体を支配されているかのように 自分の意識とは無関係に動作を行ってしまう現象などを指す " とあり これは武術の秘伝書や名人・達人の逸話等に出てくる究極の心理・身体状態ではある。

しかし 今回 コンサートを拝聴して その理解は 全く間違っていたことを痛感した。 " 感情が入れられない " というのは 正にそのままの意味で 演奏することに精いっぱいで 余裕がない ということであり 陶人先生ほどのスキルをもってしても " 発見した奏法 " は相当に難易度が高い ということなのだ。

それもそのはず タルレガの「 アルハンブラの思い出 」は トレモロ( 単一の高さの音を連続して小刻みに演奏する )という技法を駆使した楽曲なのだ。タッピングハーモニクスでトレモロを スピード感をもって演奏することなど 実際に可能なのだろうか?

事実 リハーサルは 通常の運指で行われたようで その演奏は 本番のそれよりもはるかにスムーズに聞こえていたから なおさら 本番の演奏で醸し出された不思議な緊張感は まるで初心者が演奏しているかのようなたどたどしさもあって 例えようのないスリルを覚えたのである。

 

電気の力を借りないアコーステック楽器の演奏会では 音の共鳴にかなり神経を使う。陶人先生もステージの上のどこで演奏するか? に関しては かなり慎重に場所の選定を行った。それは リハーサルの時間よりも長かったくらいであった。 

 

数えきれない反復練習によって薄れた緊張感を取り戻す あるいはセゴビア師父と同じ高みを見る という高邁な精神性は 結果として 演奏全体を素晴らしいレベルへと引き上げた。この " いったん身に着けた技術を捨てる " というアプローチは 筆者が演奏家について長年 考えてきた究極の演奏態度とも言える。

 

ジャズの即興演奏の基本的な概念は ある楽曲のコード進行を再利用して そこに別のメロディを乗せて演奏することなのだが このコード進行の約束事すら破棄してしまったのがフリージャズである。いずれも 作曲と演奏を同時に行う という点で相当に高いスキルが要求されるジャンルであり また 何の約束事もないフリージャズに至っては  正に音そのものの存在感が 非常に重要なポイントになる。

しかし ジャズは個人プレイヤーの力量に左右されるかなり不安定な音楽とも言え 歴史的な名演奏が多い代わりに その何倍もの失敗作を量産する可能性にも満ちている。筆者はある意味 その出鱈目さが性に合わなくて ジャズの現場には 何度も足を運んでいるが 実は心底面白いと思ったことがあまりない。リスナーとしての筆者は 作曲された部分と即興的に演奏される部分が理想的にブレンドされた音楽を切望しており それは筆者の知る限り ’73年~’75年に存在した キングクリムゾンのライヴの中でのみ 実現されていた。

 

陶人先生の演奏には いわゆる即興演奏や自動演奏というものはないし そもそもクラシックギターのフォーマットには そのような概念自体ない。しかし ジャズを学んでいるギタリストが 陶人先生の教室を訪れた際 自分たちが実践しているよりもはるかに高度な内容が学ばれている と驚いたそうだ。余談ではあるが 陶人教室の逸話として面白かったのは 陶人先生のレッスンが完全な個別対応ということだ。三人の高校生が教室にきて学んだのだが その指導内容をお互いが共有すると 全く別のことを教わっていて これ 大丈夫なのか? と大慌てで陶人先生の演奏を確認に行くと 確かに三人三様に教わった内容が 陶人先生の演奏の中では何の違和感もなく共存していて 驚くと同時に大いに納得した というのである( 苦笑 )

 

暗譜され 特別な意識を一切 必要としない程 身体に染みついた演奏の動きを いったんリセットして 新しく獲得した身体感をベースに 探りあうような緊張感の中 演奏する という陶人先生の新しい冒険は ’19 年 6 月 29 日の午後 箕面メイプルホールに集まったわずか100名足らずの聴衆によってのみ 体験され 見( 聴 )届けられたのだ。なんと贅沢なことであろうか。予め作曲された作品を まるで即興演奏に向かうかのように緊張感をもって演奏するための方法が そこには 確かに あった。


佐藤貴志 satoh  takashi 略歴

大阪府富田林市にて生まれる。大阪市立大学法学部卒。大学生時代、ドアーズのデビューアルバム『ハートに火をつけて(原題:The Doors)』、T. レックスの『メタル・グゥルー』、キングクリムゾンの『太陽と戦慄』を聞いて音楽に目覚め、その後、クラシック、ジャズ、民族音楽、エクスペリメンタル等々、様々な音楽との出会いを経て、多くのリスナーに知られざる音楽の普及に努めている。神戸の某企業にて10年間、カタログ販売による音楽事業を展開。

現在、音楽ブログ〈いわし亭〉主宰。いわし亭Momo之助を名乗り、肆音(しおん)『音楽ばかいちだい』を更新中。カルチャー倶楽部「みのおてならい」コンサート音響担当、同倶楽部の「音楽の森ツアーガイド」としてリポートを執筆。


2020年9月12日開催「Replay 右手のピアニスト 樋上眞生」