みのおてならい音楽の森ツアーガイド☆鑑賞ノート3

「星を想う朗読会」

箕面市立文化芸能劇場は、2021年8月1日に杮落としを迎えた超々新しいリッチな場所である。そして今回のような市民グループのイベントとなると、正に最初の催しになるだろう。高い天井と響きを重視した壁面設計は、この場所が御堂筋線の延伸工事が完了した暁には、北大阪を代表する名物ホールになることが容易に想像できる。初めてこの場所に足を踏み入れた時、“まるで北区のザ・シンフォニーホールだな” と感じたのは決して筆者だけではないだろう。これからこのデコボコした壁面は沢山の潤沢で豊穣な楽器や声の響きを一つ一つ記憶していくのだろう。そして、最高の音響空間として、その空気も気配も一緒に調律されていくのだろう と思うと、ここを再訪問する日が、今から楽しみである。

 

新交響楽団(現在のNHK交響楽団)のチェロ奏者 大津三郎の著述「私の生徒 宮沢賢治~三日間セロを教えた話」(『音楽之友』 1952年1月号)によると、賢治は大正15年の上京の際、大津三郎の自宅でレッスンを受け、「エスペラントの詩を書きたいので、朗誦伴奏(ろうしょうばんそう)にと思ってオルガンを自習しましたが、どうもオルガンよりセロの方がよいように思いますので…」とその理由を語ったという。エスペラントとは、ポーランド生まれのユダヤ人、ザメンホフが1887 年に考案した国際語である。賢治がエスペラント語に興味を持っていたのか と思うと、新しい発見をしたような嬉しい気持ちになる。異なる文化や言語を持つ人々が対等な立場で、共通言語を使って、まずはお互いの違いを理解しあおうという… 正に多様性へのアプローチの為のツール エスペラント語。ザメンホフの思想は、東北から上京した賢治には、何より身近なものであったに違いない。

朗誦伴奏とは 読んで字のごとく、作品の朗読にあわせて音楽を演奏することで、多くの詩や童話を書いた宮沢賢治は、音楽に対しても強い関心を抱いていたらしい。それは東北という土地に特有の方言が持つメロディやイントネーションをとりわけ大切に扱った賢治ならではの感覚である。

賢治の『永訣(えいけつ)の朝』には “あめゆじゅ とてちて けんじゃ” という、暗号のような不思議な言葉が出てくるが、これは、24歳で亡くなった賢治の妹トシが死の床で兄に頼んだ言葉で、“雨雪(みぞれ混じりの雪)を取ってきてちょうだい” という意味だそうだ。福島県生まれのミュージシャン 遠藤ミチロウさんが、自作の曲の中でこの言葉を使っているが、その曲紹介の際、発音された音を聞いて、初めて、この言葉本来の姿に会った と感じた。

 

チェロは17世紀中はチェンバロなどとともに伴奏楽器として認識されているが、バロック時代の終わりまでは、独奏楽器として多用されていた。重厚な低音による伴奏から、明快なメロディを伴う独奏まで楽器としてはオールマイティで、サウンドのヴァリエーション、音色の多彩さは弦楽器の中でも抜きんでている。

朗誦伴奏 を担当された山岸孝教さんは、大阪音楽大学 ザ・カレッジオペラハウス管弦楽団で首席を務められている。その気さくなお人柄からは、想像のつかない多様で、奥深い音色を奏でられ、実は大変な演奏家なのだと、今更ながらに痛感させられる名チェリストである。チェロの響きを生かした特有の重低音が筆者は大好きで、リハーサルの時からすでに気分は高揚していた。

朗読会はその山岸さんの独奏 1939年のミュージカル映画『オズの魔法使』でジュディ・ガーランドが歌った「虹の彼方に」から始まった。最初の一音で、場内のざわついて落ち着きのなかった気配が、さらりと変わってしまったのは、流石だった。

続いて川邊暁美さんの朗読で 小川未明「月夜と眼鏡」。川邊さんは NHK神戸放送局のニューズキャスターを経て、2008 年 声と言葉のコミュニケーション力、表現力UP をベースにした人材育成、コンサルティングを行う「言の葉OFFICE かのん」を設立。シン・新型肺炎で リアル催事の中止が続く中、いち早くオンライン体験会にシフトした「みのおてならい」からの要請で、川邊さんがライフワークとして取り組んでいる朗読の体験会をオンライン上で開催、それが今回の「星を想う朗読会」の重要な伏線となっている。NHKのニューズキャスターという来歴もあって、何とも美しい滑舌、イントネーションを披露され、どのような物語が朗読されているのか? といったことよりも、言葉の持つ音そのものの力こそが、聴いた人をストレートに幸せな気持ちにさせるのだと感じた。

 

市民朗読家の皆さんの朗読を挟んで、朗誦伴奏 宮沢賢治「銀河鉄道の夜」。

朗誦伴奏とは、実は二重奏(デュエット)であり、演奏が朗読のバックを務める といった単純なものではないんじゃないか? 器楽演奏はもちろん、朗読もまた人の声を奏でる音楽の一形態であり、二つの演奏が時には火花を散らしながら競い合い、時には一方が後ろに下がってサポートに回り、時には全く対等な立ち位置から互いに溶け合い融合して新しい世界観を構築する、そうしたお互いの関係性が目まぐるしく変化するパフォーマンスなのでは? とさえ思った。

洋楽の熱心なリスナーなら、歌われた異国語の歌詞がたとえ理解できなくとも、人の声を楽器の奏でる音と同等に捉えて、聴く事に慣れているだろう。もちろん歌詞の意味は分かった方が良いに決まっているが、音色として聴かれる人の声は楽器の奏でるサウンドと同等の意味を獲得している。

朗誦伴奏の場合、聴感上、耳に優しく、美しい音色としての言葉とそれを奏でる鍛えられた声が必要だ。実は、あまりに気持ちよくて睡魔に襲われた程だったと、白状しておこう。それほどまでに、この朗誦伴奏はデトックス力の高い、日本語で演じられた最高レベルのものだった。

最後は再び、山岸さんの独奏で 宮沢賢治「星めぐりの歌」。歌詞はなかったが、深い余韻を残すチェロの響きは、こうした優しい催し物の最後に相応しい。

 

朗読された作品は著作から70年を経たパブリックドメインである。この70年という時間の経過が絶妙である。新しい作品ではないが、逆に現代の日本語に馴染まない程に古過ぎない、まことに適度な言葉で書かれたものである。

というのも、“日本語の乱れ” であるとか “正しい日本語” “正しい発音” といったモノの言い方に、筆者は懐疑的なのだ。

吉田兼好は、徒然草 第22段 で “今時の人は 言葉を略し過ぎる” と少し怒っている。兼好は、今日的に言えばエッセイストであり、文化人でもあるが出家していたので、社会を外側から観察出来ていた ともいえよう。彼が “今時” つまり鎌倉時代末期~今から八百年ほど前、日本語が乱れてる という印象を持っていた というのは興味深い。

“近頃の若者は 云々” というモノ言いに至っては、古代エジプトで約5000年前、現在のトルコにあった古代ヒッタイト王国や古代中国でも約4000年前にはすでに登場していて、その中では若者言葉への指摘も見られる。言葉は、時代とともに、世代とともに変化するのが当たり前 と考える方が精神衛生上 よろしいようだ。

「星を想う朗読会」で朗読されたのは、まさに、懐かしく、耳に優しく美しい日本語であり、敢えて “正しい日本語” と言うのは止めよう。

 

YouTubeで1億6千万 回(2020/10/23公開 7月20日現在)以上の再生を叩きだした 作詞・作曲 syudou 歌唱 Ado「うっせぇわ」。ここで歌われる歌詞とメロディの一体感、その必然性と見事な着地。紛う方なき傑作であることは、この再生回数が証明している。しかし、しかしだ。この楽曲、どう聞いても、不快感が先立つのを禁じ得ないのは、なぜなのか? 

いくつかの理由は考えられるが、やはり、使われている言葉への嫌悪感が大きい とは思う。言葉は時代とともに変化する。いつしか社会の中心にいた大人も老けていき、淘汰されて、その役割を次の世代に取って代わられる。変化を嫌う大人の世代からすれば、若者のあり方が受け入れ難い というのは必然であり、過去から現在に至るまで、世界中の至る所で繰り返されてきた実例を先ほど見た。それらを認めた上で、敢えて言うなら、古き良き、耳に優しく美しい日本語は、誰にとっても、どの世代にとっても、聞き手の気持ちに寄り添い、心の一番深いところに刺さる力を残しているのだ と。

 

市民朗読家の方々が披露された作品たち ~ グリム兄弟「星の銀貨」/加藤介春「風」/竹久夢二 「風」「風の通路」/志賀直哉「小僧の神様」/新美南吉「ゲタニ バケル」/夢野久作「キャラメルと飴玉」/山本周五郎 「鼓くらべ」/小川未明「こがらしの ふく ばん」「野ばら」/中原中也「夜汽車の食堂」/高村光太郎「智恵子抄」より/太宰治「満願」 ~。知っているお話、タイトルくらいは知っているお話、作家の名前だけなら知っているお話、ぜんぜん知らないお話。筆者の狭小な知識では、知らないお話の方がもちろん多かったのだが、夫々に発見や気づきが多く、楽しい小品の見本市だった。

個人的には夢野久作の「キャラメルと飴玉」に驚かされた。あの幻魔怪奇探偵小説『ドグラマグラ』の作者である久作が、こんなに可愛らしい小品を書いていたなんて と。

古き良き、耳に優しく美しい日本語で綴られたお話の数々には、包み込まれるような気配があり、予備知識が何もなくても、心も身体も懐かしい気持ちでいっぱいになり、いつしか心地良い何とも言えない気持ちにさせられるのだ。

 

山田耕筰の「赤とんぼ」を聴く時、あのメロディは山田自身が説明している様に、明治期以前の江戸弁由来であって、関西ではああいう発音はしない。と筆者は長年、思ってきたが、言語アクセントに忠実にメロディを作曲する という山田の発想は、朗読という場でこそ、発揮されるべきスタンスなのではないだろうか 等と つらつら考える。

先ほどの宮沢賢治のエスぺラント語へのこだわりや、東北に特有の言葉の持つメロディやアクセントの妙も、実は彼の作品を朗読する際の大きなポイントになるのではないか? 方言を一人称で使う世代が激減して、標準語だけが残された時、音楽の持つ可能性のかなりな部分が削ぎ落とされてしまうのではないか? という懸念が、筆者にはある。

 

朗読という行為に意味があるとしたら、それは、古き良き、耳に優しく美しい日本語を 方言も含め 音(メロディ・イントネーション)として 次の世代に伝えていく 残していく ということなのかもしれない。

自分自身、出来るだけ沢山の美しい言葉を、声に出して、読み上げてみたい。そんな欲求にかられた、お休みの日の午後であった。

 

2021年8月9日 月曜日 台風一過の昼下がり @箕面市立文化芸能劇場

「みのおてならい」主催「星を想う朗読会」にて

 

 

*文中の「シン・新型肺炎」は、佐藤氏の造語です。氏によると、新型肺炎は2020年に出現した新型の感染症であり、2021年になってさらにデルタ株、ラムダ株など感染症が次々と変化しているため、庵野秀明の「シン・エヴァンゲリオン」「シン・ゴジラ」に倣って呼称されました。

なお、佐藤氏はコロナビールの愛飲者のため、コロナという言葉を使うのは、出来るだけ避けるようにしている とのことです。


佐藤貴志 satoh  takashi 略歴

大阪府富田林市にて生まれる。大阪市立大学法学部卒。大学生時代、ドアーズのデビューアルバム『ハートに火をつけて(原題:The Doors)』、T.レックスの『メタル・グゥルー』、キングクリムゾンの『太陽と戦慄』を聞いて音楽に目覚め、その後、クラシック、ジャズ、民族音楽、エクスペリメンタル等々、様々な音楽との出会いを経て、多くのリスナーに知られざる音楽の普及に努めている。神戸の某企業にて10年間、カタログ販売による音楽事業を展開。

現在、音楽ブログ〈いわし亭〉主宰。いわし亭Momo之助を名乗り、肆音(しおん)『音楽ばかいちだい』を更新中。カルチャー倶楽部「みのおてならい」コンサート音響担当、同倶楽部の「音楽の森ツアーガイド」としてリポートを執筆。


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